野球と私
ライン


リストマーク 名門・関西のセレクション

小学校4年生のころから野球遊びを始め、中学では当然野球部に入部。県内でもけっこうな実力校で、1年後輩たちは秋・春・夏と3季連続優勝の偉業を成し遂げている(私の時代は恥ずかしながら県大会へは1回しか進めなかった)。

当然高校でも野球をと思っていた私には、ひとつだけ問題があった。団塊の世代にして野球バカの私に先生は、入試倍率からいっても「県立は無理じゃな」。それではと、私立の名門・関西高校のセレクションを受けることに。

当日、約150人もの連中が集まり、各ポジションに散り球回しの後、2カ所で1人10球のフリーバッティングとなった。ネット裏では監督・部長のふたりが目を光らせている。いよいよ私の番が来たので、自分に「3日前を思い出せ」とつぶやいた。実は3日前、中学校のグランドで初めて硬球でのバッティング練習をしてきたのだ。その時、私は硬球の打ちやすさに好感触を得ていたのだ。

グリップがやや太めのバットを手に、ボックスに入った。自信はあったが、実際にも初球から5球連続してセンターライナーを打つことができた。その時、ネット裏から声がかかった。「おい、中学校と名前は?」、「はいっ、吉岡中学校のゴボウです」「何、ゴブ?」。

こうしてセレクションは終了、15人ほどが残され、「ええか、受験番号が決まったら知らせろ」と言われ、私はここで合格を確信した。

関西を受けるつもりだと言うと「関西もむずかしいで」と言っていた担任のS先生に、このことを報告しに行ったところ「おメエーならできると思うとった」とぬかしやがった。

関西には1級上に故森安敏明投手がいたし、甲子園も夢ではない。夢は広がるばかりの球児が誕生するはずだった。が、しかし壁があった。関西に通うには下宿をする必要がある。このため、兄と一緒に岡山市内の親戚を訪ねた。ところが、返ってきた答えは「野球じゃメシは喰えん!」だった。

このひと言で高校野球への夢を断たれた私は野球部のない高校に入学し、「平凡」「明星」で読んだ、あの西郷輝彦さんのサクセスストーリーをバイブルに、芸能界をめざすことになったのだった。


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